Netflix版の『三体』を視聴して、続きが気になったので原作を一気読みした。本屋に行ったら、一般的な文庫より太いサイズが5冊+αもあってびっくりした。2週間くらいかかっただろうか。余韻がすごいので感想を書く。
『三体』概要
『三体』は、中国の作家・劉慈欣によるSF小説で、人類と地球外文明との接触を描く作品。文化大革命期の中国で、科学者が宇宙からの信号を受信したのを発端に話が紡がれる。アジア人初のヒューゴー賞1を受賞したことでも有名。
原作は2008年に中国で出版され、日本では2024年に早川書房から日本語翻訳版が文庫化。文庫シリーズは第1部, 第2部(上・下), 第3部(上・下)の計5冊2からなる。
感想 (ネタバレ含まない)
この壮大な物語をネタバレ避けて伝えるにはあまりに情報が…。
分厚い…分厚すぎる
読むのを渋っていた最大の理由はおよそ3000ページあること。さらに読んでみて思ったのが、難解な科学的記述も多く結構時間がかかる。とはいえ全て理解できなくても十分楽しめるし、読み出したら慣性で止まらないように設計されているので問題なし。
著名人たちも虜にする『三体』
The scope of it was immense. So that was fun to read. Partly because my day-to-day problems with Congress seem fairly petty — not something to worry about. Aliens are about to invade! - Obama3
オバマ前大統領のコメント。彼ですら、『三体』に比べれば普段の国会の問題なんてちっぽけに思えると言及している( 流石に冗談も入っているだろうが )。さらにはMetaのザッカーバーグも愛読書として紹介していたりするくらいだ。
小説を読む前に、Netflix版の『三体』を見たが映像の美しさにびっくりした。今世紀を代表するSFとだけあってお金のかかり方が尋常じゃない。若干オリジナルとは構成の違いはあるものの、違和感は感じなかった。続編も作成中とのことで期待大である。
(あのシーンどう映像化するんだろうというのがいくつもあるので本当に楽しみ)
振り返ると著者の劉慈欣がひたすらにすごいなという感想に尽きる。想像の上をいくアイデアの数々はもちろんのこと、それを論理立てる科学分野での知識量 ( もちろん飛躍はある )。自分と近い専門の話だと、見当違いの捉え方に萎えたりする作品も多いけど、本作ではそういう感じはなかった。本業がエンジニアというのも理由として大きそう。さらに比喩のうまさも相まって、衒学的な感じもなく流石だなと思った。
感想 (ネタバレ含む)
小説を読んでいない方は読まないほうがいいです。ここからが書きたかったけど。
全体主義と博愛主義
本作で一番強く感じたのは、全体主義の冷酷な合理性と、それに対する博愛精神の対立構造。全体主義の根底にあるのは、「生き残るためには他を犠牲にしても構わない」という徹底的な効率主義であり、それに対して程心のようなキャラクターたちは、たとえ脆くても人間的な温かさや優しさを選び続ける。作中では、こうした博愛主義が時には人類にとっての危機を招く一方で、その美しさや希望も鮮やかに描かれている。
全体主義的な視点から見れば程心は弱さが目立つ。それが故に他人のレビューを見ると、程心がやたらと嫌われている気がするが果たしてこれはどうなんだろうか。
さて、センスオブワンダーという言葉がある。SF文脈でも使われるが、レイチェルカーソンの未完の書名でもある。(作中では彼女の代表作『沈黙の春』4が第一部で出てくる。) ここで主張されているのが、子供の時はみんなが生まれ持って持っていたはずのセンスオブワンダー、つまり「神秘さや不思議さに目を見はる感性」をいつまでも失わないでほしいという願いである。
例えば、面壁計画で散々自分勝手していた時の羅輯や、オーストラリアの先住民フレスの人生観はこれに近しい状態に感じられた。さらに、程心が象徴する博愛精神や希望を持ち続けることが、レイチェル・カーソンが述べたセンスオブワンダーとも重なる。そして彼らには人間的な温かさが感じられた。
これらを踏まえて、全体主義のもと合理性のために時には人間性さえ捨てて生きるのが正しいのか、儚くても根元的な人間性を大事にして今を生きることが是か、どうなんだろう。
フェルミのパラドックス / (Ⅱ 黒暗森林)
「もし宇宙人が存在しているとしたら、一体どこにいるのかね?」 -エンリコ・フェルミ
『三体』第二作目の黒暗森林シリーズではフェルミのパラドックスを重要なテーマとして扱っている。要は、宇宙の歴史から考えても地球外生命体が存在する可能性は高い一方で、そのような文明との接触がいまだ皆無であるということとの矛盾を端的に表した文である。
作中ではこのパラドックスに対して「暗黒森林理論」という仮説が提示されている。これがかなり面白かった。
この理論は、宇宙はあたかも暗黒の森林のようであり、各文明は他の文明に見つからないように潜伏していると主張している。どちらが見つけるかというのは重要ではなく、結局他文明に認識されれば脅威と見做される可能性が高い。よって攻撃を避けるためには、知的文明は基本的に「沈黙」を保つのが正しいという考えである。
それをもとに羅輯が「呪文」をある惑星に送るわけだが、三体で頭がパンクしているのにさらに別の地球外生命体を意識させる展開に脱帽した。Ⅱは、羅輯・史強のコンビが本当に好き。
猜疑連鎖について
「人類が宇宙をさすらうことになれば、全体主義に到達するには五分しかかかりませんよ。」
これは<青銅時代>の乗組員のシュナイダーと裁判官とのやり取りの一節。
水滴からの攻撃を逃れた仲間の艦隊たちがもう2度と地球に戻れないとわかった途端、仲間内で暗黒の戦いを始める。宇宙船が自世界の全てだと確定すると、数分前まで仲間だったはずの別艦隊との関係性がいとも簡単に崩壊する。そこには一切のプロセスも存在しないということを思い知らされる。
ここで猜疑連鎖という独特なワードを思い出す。これは異星文明同士が宇宙で遭遇した際に生じる相互不信のことを指す。宇宙では、どの文明も相手の意図を完全には理解できず、友好的に見える存在でも実は脅威である可能性があるため、先に攻撃したもの勝ちな状況が生まれる。
シュナイダーのこの言葉および裏切り行為は、猜疑連鎖の概念と密接に関係している。実際には地球人同士で異星文明ではないが、信頼感の欠如とリソース不足により発生した冷酷無比な攻撃が鮮明なインパクトを与えている。
日常生活においても、ここまでが内側でここからが外側、というように勝手に線引きすることで同様の現象が起きていないだろうか。例えばそれは身内や地元のような切り口でも、国単位のように大きい話でもある。そしてさらに、もしお互いの余裕がなくなった場合に以前と同じ姿勢でいられるのだろうか。
ゴッホ 「星月夜」
第3部、太陽系が2次元化する某シーンでのキービジュアル。ここの表現が群を抜いているように感じた。
さらに同部で描かれる4次元のかけら。平面の世界からは直線が、立体の世界からは平面が全て見通せる。じゃあ4次元世界からは何が見える?という問いへの言語化がうますぎると思った。総じて著者の次元の操縦がとんでもない。
『時の外の過去』という仕掛け
作中、『時の外の過去』序文より抜粋という形でそこまでの解釈が俯瞰的トーンで描かれる。
本来、これは歴史と呼ぶべきかもしれないが、頼りになるのが自分の記憶だけとあっては、歴史と呼ぶに足る正確性は望むべくもない。過去と呼ぶことさえ正しくない。というのも、いかに語る出来事は、過去に起きたことではなく、いま現在起きていることでも、未来に起きることでもないからだ。 -Ⅲ(上) 冒頭
結局これは物語の終盤で、程心によって書かれたものだと判明する。進撃の巨人において、次回予告をアルミンが担当していた件と構造が一致しており、この自己言及の形式はタイトルの不可解さ( きっちり回収される )も相まってかなり好き。
おわりに
いつぶりだろうか。普段はミステリが多いが、久しぶりにSFを読んだ気がする。
これらの違いについて少し考えた。
ミステリー作品は配線作業に似ていると思っていて、叙述による意図的な誤認を散りばめた構築過程の美しさと、種明かしの際に一気に灯される閃光のような感覚。対して『三体』で思ったのは、地球文明の時間経過による変化と宇宙文明との接触を契機とする未知の扉を開くセンスオブワンダーの波。
新たな視点が得られてとてもいい読書体験だった。SFはあまり読んでこなかったけど、これから読んでいきたい。(ここまでクオリティの高いものはそう多くはなさそうだけど。)